バレエは、全身を使って語りかける。
脚だけでなく、腕だけでなく、全身だ。
一方で、足だけ、腕だけで動かしてみる練習では“全身を使うものだ”ということを忘れがちだ。
これでは、そもそもの前提が狂ってしまう。
- 全身を使うものだけど、足と腕を両方動かすと上手くいかないから【一旦】局所に集中して練習する。最終的には、全身を使えるようにすることが目的である。
- 足を動かすときは、足を動かすことが目的だし、腕を動かすときは、腕を動かすのが目的。つまりそれぞれ、いかに“足”をキレイに動かせるか、いかに“腕”をキレイに動かせるかが最終目的となる。
前者と後者では、最終目的が異なるわけだから、重要視することも、ゴールまでの道筋もやるべきことも、何から何まで違ってくる。だから、同じようなことをやっていても、上達する人と、いくら練習しても上達しない人に「分離」するのだ。
例えば、ワガノワのポールドブラで考えてみよう。
第1から第6まであるこの練習法は、非常によくできている。が、ただ形式に沿ってやっていたのでは、本当の素晴らしさを実感するのは難しいであろう。
おそらく、実際にこの伝統を直々に(そのバレエ的血統において)受け継いでいる人でも、ほとんど実感できていないのではないだろうか。
[指導マニュアル]要するに、メソッドとして体形立てられているものの危うさがここにある。
マニュアル化されたメソッドは、一定の理解力が身についているのを前提に、体形立てられた通りに教えれば一定の内容を提供することができる。
最低限の「品質保証」はあるのだが、そこから先は教える側それぞれになる。
反対に、マニュアル化されていない状態のものを伝えるとなると、ただ「伝える」というだけで、教える側の力量が問われる。そのため[指導者としての能力に著しく欠ける場合]は、早い段階でふるいに落とされていく。
しかし、マニュアルで「仕事」を覚える場合、この「ふるい」にかけられることはない。マニュアルをやりさえすれば、最低限の品質保証は確かにあるわけだが、本来ふるいにかけられる品質のものも含まれてしまうことを意味する。
それ故、マニュアル指導ができる[メソッド]では、第1から第6までに至るポールドブラの目的や素晴らしさを理解できず(例え【血統】レベルだとしても)、ある種の思考停止、慣習で練習している(させている)のではないかと思うことがある。
なぜなら、マニュアルを忠実に遂行するという(時には、何も考えず、意思を持たないことさえ推奨される)優秀さと、本質を見抜こうとする優秀さは、同じ「優秀」でも全く次元が異なるからだ。
それは、何か世の中を表しているようにさえ感じるのは、気のせいだろうか。
さて、ポールドブラに話を戻そう。
ここで伝えたいのは、難しいことではない。それこそ、マニュアルにあるであろうシンプルなことだ。その「マニュアル」をお忘れならば、習う側も、伝える側もここで思い出してほしい。
第1から第6のうち、第5までが5番ポジションのまま、足を動かさない。第6でやっと、体重移動という項目が加わるだけだ。
ここで大事なのは、足と脚が「最高の5番ポジション」を形成していて、びくとも動かないことである。
腕や上体の動きの大きさに負けて、膝が緩んだり、脚を引いたり、まして5番ポジションが崩れるなんてことは、【絶対に】あってはならない。
私たちがセンターで踊るときに、終始腕だけ動かすなんてことはありえない。
足を出し、上げ、時には、跳んだり回ったり、実に忙しなく、多彩な動きを、異様なスピードで処理していくのだ。
そこに、腕の動きが加わる。
第1から第5のように、腕だけを動かす際に、足がつられて崩れたり、緩んだりしているような状態で、足を正しく動かし、[運べる]わけがない。
足や腕には、常に[指定の配達場所]がある。
- 腕を、2番ポジションから、3番ポジションに運ぶという場合は、第3ポジションが配達場所だ。
- 足を、5番ポジションから、前にタンジュするという場合は、前のタンジュが配達場所だ。
- ピケアラベスクなら、アラベスクが配達場所になる。
これは、最もシンプルなパターンで、実際には、アラベスクやターンなどが加わるため、もっと複雑だ。
結論を言おう。
腕を運ぶ(ポールドブラ)際に、足や脚がびくともしないことは、腕を動かすのと同じくらい重要である。
違う言い方をするならば、第1から第5ポールドブラに至るまでの動きの中で、足や脚がびくともせずに任務を遂行できないようなら、足の動きを正確に行うことはできない。
ポールドブラというと、腕【だけ】と思いがちだが、そうではない。相変わらず【全身】なのだ。
腕だけ、腕の非対称、上体の大きな傾き、回旋、サークル、体重移動というように、このポールドブラは実に多彩な動きをプログラミングされている。
その中で「バレエという目的」を見失わないこと。
それは、習う側だけでなく、教える側・伝える側にも試されているのかもしれない。