恥ずかしがらずにやって
失敗を恥ずかしがらないで
こうした言葉を耳にするのは、バレエレッスンに限ったことではない。
ありとあらゆることで、「安易に」耳にする言葉である。
だから、この話は、バレエに限ったことでない上に「大人だろうが、子供だろうが、人間である以上、共通したこと」なのである。
人間は、「叱られる・怒られること」には、慣れていく。
年がら年中、ギャンギャン言われていると、自分を守るために「右から左へと話を聞き流す」習慣をつけていく。
そのうち、大事な話さえも、聞き流していくようになってしまう。
一方で、「恥ずかしい」という感情は、比較的、慣れにくい。
バレエに限らず「先生」と呼ばれる指導者は、「アメとムチ」を「褒めること、叱る・怒ること」にしているようだが、それがベターだとは思わない。
「認めること、恥ずかしいことの提示」が、効果的かつ、重要だと思っている。
前者が、「受動的になり、雰囲気が暗くなる」のに対し、後者は、「能動性を帯び、前向きな雰囲気になる」という利点もある。
もちろん、必要な時に「叱る」ことも重要だ。
ただし「必要な時」というのがポイントになるだろう。
必要でもないのに、年がら年中叱っていると、「叱る」という効果を発揮しなくなる。
人はなぜ、表現や失敗を恥ずかしがるのだろう。
表現においては、表現のパターンがまるで「0(ゼロ)」の状態であれば、表現しろと言われても、無理な話だ。
「自分自身をさらけ出して!」なんて、安易な言葉を使うヤツがいるが、常識的に、公衆の面前で、自分自身を曝け出すことが平気な人なんているのだろうか。
(表現のパターンや自信については、こちらの記事も参考にしてください。)
考えてみようじゃないか。
ダンサーは、ある種「演者」である。
演じる者、と書く。
「役者」は、どうだろう?
「役をあらわす者」と書く。
演技をする者、役をする者であって、「それそのものになること」ではない。
Aという人物を表現する時、「Aという人物に見えるように」面をかぶることであって、Aになることでもなければ、そこに自分自身を投影することでもない。
Aという人物を表現するにあたり、恥ずかしがるようなら、かける言葉は「恥ずかしがらないで!」では、ないように思う。
Aという人物を分析し、それを表すための「パターン」を指導する。
これが「指導する」ということだと思う。
「恥ずかしがらないで!」で終わらせては、「指導放棄」だと思うからだ。
もう1つ、失敗を恥ずかしいと思うばかりに、思い切ってできない場合。
こういう場合、「失敗する=恥ずかしい」と思っているわけだから、「恥ずかしがらないで!」では、解決のヒントになんて、1ミリたりともなりゃしない。
原因は、明確ではないか!
「失敗することを、恥ずかしい」と思っているわけだから、「失敗しない技術に導くこと」が指導者の役割である。
ここで、何が必要かと言われたら「確信的に動くことができること」、「自信をつけること」である。
指導者がすべきは、そのための方法・解釈・知識等々を指導したのち、最も重要なのは「待つこと」である。
「待つこと」は、「指導すること」より難しい。
つい、あれこれ言いたくなるものである。
それを、ぐっとこらえて「見守ること」が、時として、最大の指導となることを忘れずにいたい。
ところで、「恥ずかしがらないで!」本当にそう、恥ずかしさを失なったら、どうなるだろう。
人間、「人には恥ずかしいところを見られたくない」と思うからこそ、負けず嫌い(良い意味で)となり、一生懸命に取り組むという側面を持っている。
・お腹が出ていたら恥ずかしい。だから、お腹を引き上げよう。
・このステップを知らなかったら恥ずかしいかも。だから、覚えよう。
・この役をやるのに、そう見えなかったら恥ずかしい。だから、どうやったら「見えるのか」研究しよう。
こんな感じだろうか。
これが全て、なくなってしまったら、向上心のカケラもなくなってしまうかもしれない。
恥ずかしいという感情が抜け落ちてくると、こんなことを思うようになる。
「だって、でも、どうせ私なんて」
この言葉を、心で唱えてはならない。
負け犬根性が染み付いてしまう。
もしかしたら、「負けてもいいのよ」と、悪意に満ちた優しい言葉をかけてくれる人も、いるかもしれない。
負け犬根性というのは、恐ろしいもので、「ひねくれた人間の形成」を、恐ろしいスピードでやってのける。
あなたの周りにも、きっといることと思う。
「だって・でも・どうせ私なんか」実際に言っているか、呪文を唱えている人。
決して、前向きに明るく、問題解決に立ち向かう、爽やかなレディー…では、ないと思う。
「恥ずかしい」という感情は、いわば、成長するための「最後の砦」というべきものである。
本人が、確信を持てない状態で、恥ずかしいという感情を解除することを覚えてしまうということは、成長意欲・向上意欲を摘んでしまうことである。
能動的にレッスンできるようになるためには、時として、指導者が悪い見本をみせ「ああは、なりたくないわ」と思わせることも、大事なことだ。
そこまで来れば、「ああは、なりたくないから」、行動を起こし始める。
時として、指導者には「いい見本」より、「なりたくない見本」が、求められるのである。